*気まぐれ映画レビュー*

あんなとこで爆発させたらダメでしょ…

ダークナイト ライジング

Dark Knight Rises

2012年/アメリカ/

クリストファー・ノーラン監督

 ノーラン監督のバットマン・トリロジー(三部作)を三日連続で鑑賞しました。(初鑑賞だった「ビギンズ」は予習として…iTunesMoveをPCの17インチのディスプレイで、2度目の鑑賞の「ダークナイト」は復習として…DVDを42インチのTVで、もちろん初鑑賞の「ライジング」は実習?として…映画館のスクリーンで)


 大変面白い大人の鑑賞に堪えうるシリーズだと思います。  

 しかし、さすがに三作連続で観ると話がこんがらがってくる部分もありましたが、それ以上に、火災や爆発シーンがどんどん派手になっていくことに食傷気味になってしまったのは私だけではないと思います。 

 大規模なものだけ挙げても、「ビギンズ」ではラーズ・アズ・グールのアジトの火災に伴う爆発とウェイン邸の火災、「ダークナイト」では、捕らわれの身のレイチェルとハービーのいるそれぞれの場所の爆破、病院の大爆発、「ライジング」では、スタジアムのフィールドの爆破と陥没、鉄橋の爆破、果てはこれ以上ない…核爆発! 大小含めれば、あっちこっちで爆発を繰り返しています。  まあ、スケールの大きいアクション映画なんで仕方がないかとは思いますが、ちょっとやりすぎだろ感は否めませんでした。 

 繰り返しますが、「ライジング」もとても面白い作品でした。 

 オープニングの飛行機のアクションも手に汗握りましたし、バットマン=ヒーロー登場まで時間がかかり、ヒールに力が及ばないヒーロー像も私好みです。 

 しかし、不満に感じた部分も多々あります。

 まず、前2作を観ていないと置いてけぼりを食らう脚本はいかがなものかと…。辻褄合わせというか、無理に完結を意識した作りに窮屈さも感じてしまいました。 

前作からはハービー・デントのエピソードが引き継がれていますが、もう一人強烈なヒールであるジョーカーの存在が完全に無視されているのは解せません(演じたヒース・レジャーが故人であるにしても)。

 むしろ一作目との繋がりが強いのですが、終盤ベインの正体が明らかになり、それに伴い唐突に黒幕が明かされるのには思わず失笑してしまいました。取って付けたかのような台詞による種明かしは、それまでのリズムを崩します。この件のメロウな展開はいただけません。ミランダの事切れる場面の安っぽさにも閉口してしまいました。  

 さらにいえば、セリーナの裏切りによって、バットマン=ブルースはベインに完全に叩きのめされて「奈落」に落とされます。その間にゴッサムはベインの手で崩壊の一途を辿ることになってしまいます。そこまでされておきながら、再会後に彼女に協力を求めるブルースの心理が理解できません。

 セリーナにしたって、自分の犯罪履歴を消し去るチップの入手に拘りますが、あそこまで無法地帯と化してしまったゴッサムで、チップにいったいどれほどの意味があるのでしょうか?(本編を観ながらずっと感じていたのですが、ひょっとして峰不二子って、セリ-ナ=キャット・ウーマンがモデル?)  

 ラスト・シークエンスにもケチをつければ、あんなところで核爆弾が爆発したらゴッサムの街は救われようはずがないですね。ここら辺は、アメリカ人の核に対する認識不足が如実に表れています(アニメ「アイアン・ジャイアント」にも、似たようなシーンがあります)。

 最後のウェインとセリーナの姿も見せるべきじゃあなかったように思いますが…。 

 あとジョン・ブレイクの「本名」は、完全に見過ごしていて全く気づきませんでした。  

 

 バットマンは、基本的には架空の都市ゴッサム・シティの中だけで展開するストーリーですが、「ライジング」では、アメリカ国歌や星条旗など、アメリカ(U.S.A.)を強く意識させるアイテムを登場させていたのはどういう意図でしょうか? ならばなぜ、アメリカ軍が出動しないのだ!? なぜ、大統領が声明を出さないのだ!? という矛盾が生じてきてしまっても仕方がないような気がするのですが…。 

 あれだけ爆発シーンを派手にしておきながら、ベイン側の一斉射撃に突っ込む農民一揆のような警察官の捨て身の特攻にも、だから違和感を覚えずにはいられなかったのです。 

 ベインとバットマンの壮絶な殴り合いにも、あまり興奮しませんでした。脚本に芸がないのです。  

 

 まあ、なにはともあれ、(これだけ批判的意見を書いておいても)面白い映画なんですけどね…  

 

 私はこのトリロジーでは「ビギンズ」が、ストーリー的にも脚本の出来や全体のまとまりを考えても一番面白かったです(前半はちょっと「スター・ウォーズ」が入っていましたが…。だってリーアム・ニーソンがクワイ・ガンジンとダブりませんでした? 剣をライト・セーバーに持ち替えれば)。

 

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ネガティヴな性格の“かいじゅうたち”なんて…

かいじゅうたちのいるところ

Where the Wild Things Are

2010年/アメリカ/スパイク・ジョーンズ監督

 

原作と比較するのは、この際無意味なことでしょう。
ただジョーンズ監督がセンダックの絵本を下敷きにして、いったい何を訴えたかったのか疑問が残るのです。


父親のいないマックス少年は、姉に疎まれ、母を困らせる。空想癖もあるようでお話作りにも長けている。このように冒頭に描かれた、構ってもらいたい年頃の少年の孤独感を描いた一連のシークエンスが、かなり紋切り型です。
では、マックスが漂着した島“かいじゅうたちのいるところ”に移ってからはどうか。画面の色調は暗いトーンが引きずられ、そこではかいじゅうたちの「トラブル・ストーリー」が展開しています。マックスという「外来種」が訪れることにより、彼中心の新たなストーリーが始まるのではない。元から繰り広げられてきたであろう(そう考えるしかない)「トラブル・ストーリー」に、出任せから王として君臨(?)することになったマックスが参加するという形です。かといってこの映画は「オズの魔法使い」や「千と千尋の神隠し」のような冒険譚やファンタジーにはなりません。マックス少年の成長を描いたビルドゥングス・ロマンといった趣とも異なります。「異世界」でありながらも「こちらの世界」にいる人間たち同様に、鬱屈としたもめ事・悩み事を抱えながら生きているかいじゅうたちのもとで、いっしょに悩んで翻弄されるのです。

実はここが原作とは大きく異なる点であす。原作においては、マックスと戯れるだけの愉快で可愛らしい単純明快な存在でしかなかったかいじゅうたちが、映画では名前が与えられ、英語でしゃべり、性格付けまで施されている。マックスの妄想(あるいは夢)の産物であろう「異世界」は、「こちらの世界」と何ら変わらない悩み多き社会として描かれている。つまり、身近な人間たちの悩みやもめ事を常に目撃し、自分自身も傷つけられてきたマックスのその体験が、「異世界」のかいじゅうたちにそのまま乗り移っているのです。
小さな共同体の中で、仲間との協調性や自らの居場所について悩むかいじゅうたちの姿に、私は最後まで違和感を抱き続けていたのですが、何よりもこのかいじゅうたち、卑屈なもの、内向的なもの、自分勝手なもの、嫉妬深いもの…みんなあまりにもネガティヴで暗すぎます。マックスには、そんなかいじゅうたちの共同体を巧く治める力など持ち合わせていません。原作では、自由自在にかいじゅうたちを操れる文字通りの小さな王様だったマックスも、映画では最終的にただの子供として何も変えられないまま去っていくことになります。ここに至るまでの他愛のない悪ふざけ(?)が深刻めいた話の展開にそぐわず、空回りしていてまだるっこしい。


最後に一つマックスが気付いたこと。それは、もめ事を解決させる最終手段にはママの存在が必要なこと。マックスにとって唯一信頼できるのは、一番近しく愛しい存在であるママであって、ママこそがマックスの「王」であるということ。
さて、マックス自身のホームシック(「おうちに帰りたい」「ママに会いたい」という望み)はあまりにもあっけなく解決しますが、(妄想の中の)かいじゅうたちの「トラブル・ストーリー」は、諦念と共にやるせなく放り出されたままになっています。これではこの作品から完全なカタルシスを得ることは叶いません。


生きづらく、悩みだらけの人生を受け入れて強くなれというのが監督のメッセージなのでしょうか。
しかし、殺風景な舞台で、生活感を感じないかいじゅうたちに、人間性を持たせて演じさせるのには相当な無理があると云わざるを得ません。そこが私が最後まで違和感を抱き続けた所以です。お話作りに長けたマックスであれば、もっと破天荒なストーリーが展開されてしかるべきだと思うのですが…。


ティム・バートンが描くような、極彩色のファンタジーにはしたくなかったのでしょうが、それならばもっと観る者をぐっと惹き付ける、ジョーンズ監督なりの仕掛けがあってもよかったのではないか?
かいじゅうたちの着ぐるみの出来や雰囲気が良かっただけに、勿体ない限りです。

 

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想い続けて…

ディア・ハンター 

the Deer Hunter 

1978年/アメリカ/マイケル・チミノ監督

 

 

 

『ディア・ハンター』。マイケル・チミノ監督1978年のこの大作を、私は中学3年の時にリヴァイヴァル上映で始めて鑑賞しました。

あまりの衝撃に、鑑賞後しばらく何も手に付かなかったことを記憶しています。

戦場という修羅場に放り出されたときに現す本性。あまりにも理不尽な仕打ち。固い絆で結ばれた友情…。

本作を語るときには、当然こういった要点が挙げられてきます。

 

しかし私はその後、劇場、ビデオ、LD、DVDと媒体を変えながらこの映画に接してきて、次第に別の観点から観るようになってきました。

 

その前に、この作品でマイケルとニックの関係をホモセクシュアル的に捉えている方が結構いるみたいですね。

出征前とクライマックスの二人の関係を見ていると、それが仄めかされていると言えなくもありませんので…。
そう感じてしまうのは仕方がないことかもしれません。

 

私の場合、そういう捉え方はまるで出来ませんでした。

穿った見方なのかもしれませんが、そう観ざるを得ない理由はあるのです。以下に述べます。


マイケルはニックのフィアンセともいえるリンダに強い恋心を抱いていて、ニックが親友であるが故にそれを打ち明けることが出来ずにいる。心は常に悶々としている状態です。
スティーヴンの結婚式で、所在なげにひとりバーで酔っぱらって、ニックと踊るリンダを見つめる目、出征先でニックのものと全く同じリンダの写真を携えていて、彼女に電話をかけるのを躊躇したり、自分の帰還を祝うパーティーの場から友人たちが引き払った後、リンダひとりになったところで現れたり…。
所々でマイケルのリンダに対するやるせない想いを見て取ることが出来るのです。

そんなマイケルは、帰還後しばらくしてリンダとベッドで結ばれます。しかしマイケルは、ニックのいない寂しさを癒すためにリンダが自分を求めてきたであろうことを感じ取っており、また、ニックのいないところで関係を結んでしまったことに後ろめたさを覚えるのです。

マイケルは、ニックが生存していることを確信してベトナムへ戻ります。そして遂にニックの所在を突き止めたマイケルは、ニックとロシアン・ルーレットの席で向かい合うことになります。
親友ニック奪還のために、文字通り死を賭けたマイケルの行動です。
廃人と化したニックに記憶を呼び戻させるために、マイケルは必死に語りかけます。鹿狩りのこと、一発で仕留めること・・・ニックは一瞬記憶を戻しかけますが、マイケルはなぜか最後まで、ニックのフィアンセ、リンダの名前を口にすることはなかったのです。ここは、わたしが当初疑問に感じていたところでもあります。
“アイ・ラヴ・ユー”と言いながらニックを見つめて、こめかみに当てた拳銃の引き金を引くマイケルの姿は、リンダという女性が入り込む余地などないということなのでしょうか? 
確かにあの極限の状態で、マイケルは全霊を無二の親友ニックに捧げています。しかし、そこでマイケルがリンダの名前を一言でも発したのなら、ニックを覚醒させることが出来たかもしれない。あとのないニックを救うためには、リンダを思い出させることが最終的手段となり得ていたはずなのです。それをしなかったマイケルには、リンダの恋敵としての冷酷さのような感情が無意識に働いていたのではないでしょうか? いずれにしても、リンダとニックの間で揺れる心の葛藤があったことことに疑いはないと思います。
ロシアン・ルーレットの席は、親友の恋人に心を寄せるマイケルの、煮え切らない想いに決着をつける場であったとも考えられるのでです。

ラスト・シークエンス。ニックの葬式後の会席の場でのマイケルは、他の人々の沈鬱な面立ちとは明らかに異質の、どこか憑きものが落ちたような柔らかな表情をしていているように見えます。開放感すら感じるといったら言い過ぎでしょうか? 心痛のリンダを気遣うマイケルは、“リンダのことは俺に任せろ” とでも言いたげな雰囲気を醸し出してさえいるのです。

この作品をひと言で語るのは困難ですし、テーマすら見た人によって様々な見解に意見が分かれるでしょうが、ひとりの男の恋の行方を描いた物語でもあったことも窺えるのです。

 

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ユルイのです。

真夜中のサバナ 

Midnight in the Garden of Good and Evil

1997年/アメリカ/クリント・イーストウッド監督

 

最近あまり映画が鑑賞できません。

AMAZONのマーケットプレイスや、TSUTAYAで3枚買うと3,000円のDVDを購入することもあるんですが、買うと安心・満足してなかなか鑑賞するまでに至らないのです。しかし、先日実に久しぶりにTSUTAYAでDVDをレンタルしました。レンタルしたら観ないわけにはいきません。だから、とても慎重に作品を選びます。

そして手にした一枚が、クリント・イーストウッド監督の『真夜中のサバナ』。

イーストウッドは、大好きな監督(というか映画人)の一人なので彼の作品は40本近くみているでしょうか? しかし『真夜中のサバナ』は、上映時間が長いことから長らく敬遠してしまっていた作品でした。それを今回意を決して観るに至りました。

魅惑的な女性のヴォーカルと、いまやトレードマークになった感のあるオープニングの空撮にはゾクゾクし、否が応にも期待感を募らせます。

しかし、その期待は大きく裏切られることになってしまいました。残念ながら、イーストウッドの作品にしては珍しく冗長で退屈な作品でした。

カットされていたシーンを挿入させた完全版というような趣で、ただ間延びしただけの退屈な代物になってしまったという感じ。 原作が巧く消化しきれていないのでしょう。つまり脚色が悪い。ザ・レディ・シャブリの登場シーンなんか、ザックリと刈り込めたはず。

サバナという南国情緒?のある独特の土地の雰囲気を表現したかったのか、全体的にテンポがユルい。 もっと盛り上がってもいい裁判のシーンまでがユルい。 そのユルさに心地よさを感じることが出来ないのは、メリハリの無さとリズムの悪さに起因している。 思わせぶりな人物たちが印象的なだけに、背景描写が希薄になっているのが惜しい。 残念な作品でした。

もう一度時間を調べてみると、長いといっても2時間35分だったんですね。いや、もっともっと長く感じたな〜。

 

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